シンプルライフへの道

雑穀料理、伝統食品、マクロビオティック的な料理をしながらシンプルに暮らす知恵をお届けします

管理人のプロフィール【初めての旅行編】

2歳の夏。私は初めて両親と離れて旅行をしました。

行き先も分からずに、祖母と叔母に連れられて、

まるで近所に出かける感覚で、夜行列車に乗りました。

何時間も列車に揺られて到着した場所はまだ夜が明けておらず、

バスの停車場のようなところで、三人でぼーっと過ごしました。

朝日が昇り始めた頃、

ようやくやってきたバスに乗って

更なる目的地へ移動しました。

目的地は、祖父の弟の家。

私にとっては大叔父さんに当たります。

大叔父さんは戦後、

実家から600キロ以上離れた本州の北の地に

開拓民としてやって来ました。

極寒の地。

荒れて痩せた土地。

作物が満足に収穫できないため、

細々と酪農を始めました。

朝から晩までまじめに働いても、

新しい洋服一着買えないくらい貧しい暮らしだったようです。

開拓民としてやって来てから20数年後、

ようやく新しい家を建てることができました。

その新居を訪れるために、

祖母と叔母と一緒にやって来たのでした。

私はとても退屈していました。

バスに乗っている人たちは無表情で無口。

外の景色は、草が茫々と茂っている田舎の一本道。

対向車も無ければ

信号もない。

子どもにとって、何も楽しいものはありませんでした。

自分の家の周りだったらみんな私に声をかけてくれるのに

バスの乗客は皆知らない人ばかり。

誰一人声などかけてくれません。

そんな時、目の前に大きな海が見えました。

あまりにもキレイな海だったので

私は人目もはばからず

「海は広いな大きいな~」と大声で歌ったのです。

そうしたらバスの乗客たちは一斉に表情を崩して

拍手してくれました。

祖母と叔母がその後、何度もその時のことを話すので、

2歳の私にとってはおぼろげだった記憶が

いつの間にかはっきりと定着していました。

因みに私が「海」だと思ったところは実は「沼」だったのを知ったのは、

ずっと後になってからです。

それから10数年後、その土地を再び訪れました。

大叔父さんの二男が20歳くらいで、

高いところから落ちて亡くなってしまったからでした。

大叔父さんたちが開拓地に来てから生まれた二男は

開拓にちなんだ名前を付けられていました。

大叔父さんと大叔母さんは、

私たち来客に、

気丈にふるまっていましたが

がっかりしているけれども、

深い悲しみを必死に受け入れようとしているようでした。

その頃訪れた時は、2歳の時に来た時と比べて

景色は少し変わっていました。

細いでこぼこ道は、

広く整備され、

何かを建築している途中のようでした。

私は何を作っているのかさっぱり分かりませんでした。

3度目に訪れたのが、15年くらい前。

道路が立派に整理され、

まるで近未来の場所に来たかのようでした。

車一台すれ違わない、

人気のない道。

人ひとり歩いていない道。

立派すぎる建物。

そこは、異様なほどの寒々しい場所に変わっていました。

大叔父さんの家は、

元あった場所から移動させられ、

以前来たときよりも少し大きな二階建ての家になっていました。

酪農は廃業し、

息子さんとそのお嫁さんが近くで働いて生計を立てていました。

家から出てきた大叔父さんは、

足腰が弱って、

外に出ることが少なくなったようでしたが、

わざわざ外に出て来てくれ、

遠くからやって来た私たちを歓迎してくれました。

私は、初めて訪れてから30年足らずの間に

この土地に何が起きたのか、

その事実だけを知りたくて、

いてもたってもおられず、

自宅に帰って調べました。

知って驚きました。

悔しさとやるせなさと無力感と脱力感が一気に襲ってきました。

その気持ちは、大叔父さんの方が、私の何百倍も感じていたと思いました。

大叔父さんはこんな厄介なものを埋め立てるために

この土地を開拓したわけではない。

危険と隣り合わせて暮らす日々。

危険なものから得られる仕事と収入に頼らざるを得ない生活。

何万年も管理し続けなければいけないものを、

無力な人々に押し付けて、

誰が一体責任を取るのだろうか?

その当時はこの事実を誰に話しても受け入れてもらえず、

歯がゆい思いをしていました。

「言葉が通じない」

そんな思いをしながら過ごしていました。